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執筆者の写真kumada rie

「許す」とは?トラウマケアにおける回復の一歩

10/19はACOA大阪でした!ご参加くださった皆様、いつも本当にありがとうございます。毎回、自助させていただいているなあと、私たちの中にある回復に向かうしなやかな力強さを感じます。


読書会では『子どもを生きればおとなになれる』(クラウディア・ブラック著、発行アスク・ヒューマン・ケア)を読み合わせしていますが、今回出てきた言葉の一つに「許す」がありました。「許し(時と場合で「赦す」とも書かれます)」は非常に難しい考え方で、私もいま一つ理解できているかどうかはわかりません。ただ、私の経験の中で、許すとはこういうことかな、と思うことがあるのでお伝えさせていただきたいと思います。

秋のイラスト

書籍から引用すると、


<許しとは、どういうことではないか>

  • 許すことは、忘れることではない

  • 許すことは、大目に見ることではない

  • 許すことは、相手を免責することではない

  • 許すことは自己犠牲ではない

  • 許すことは、そのことについて二度と怒りを感じないということではない

  • 許すことは、一時の決心でできることではない


<許しとは、どういうことか>

  • 許すとは、自分にはもう恨みも敵意も、自己憐憫も必要ないと気づくこと

  • 許すとは、自分を傷つけた人を罰したいとは思わなくなること

  • 許すとは、過去に起こったことで自分という人間を決めるのをやめること

  • 許すことは、自然に訪れる結果

  • 許すことは、忘れないけれど手放すこと


 

私自身、両親、特に父親との関係が非常に難しく、父から受けた様々な暴力的な行動に本当に苦しんできました。私が抱えてきた様々な生きづらさはその暴力に由来していますし、両親を恨んでいた時期もありました。トラウマケアについて学び始めた当初は、「許す」という考え方を聞いても、「許すなんてとんでもない、一生許してやるもんか」と思っていました。「許す」という言葉さえも受け入れがたく、頭で理解することすら難しかったです。


そんな私が「あれ?」と思ったのは去年ぐらいのことです。父との離縁が成立し、自分のための人生を歩んでいると感じられるようになってから、ふと父を思い出しても、以前のような腹立たしさや不安がなくなっていることに気づきました。以前の父に対する感情はねっとりとしていて、赤黒く、ずっしりと重みがあり、私に絡みついてくるようでした。それが今では、さらさらと軽く、どこか遠いところにあるような、私に影響してこない感覚です。父への感情が、お墓に入って、ただそこに在るだけ、という感じです。


この変化が、もしかすると「許し」なのかもしれない、と感じました。本の中に書いてある内容と照らし合わせると、大体当てはまっているような気がしました。しかし、私は今でも父に対して怒りの感情が湧き上がることはあります。それは、書籍に「二度と怒りを感じないことではない」と書かれていたように、「許していない」ことを意味するわけではないようです。怒りに翻弄されて人生が左右されてしまったり、怒りにコントロールされている状態だと、恐らく「許していない」のだと思いますが、怒りをただ外から眺められたり、怒りと付き合える状態になると、「許す」に近いづいている気がします。


許すことは、目的でも手段でもなく、ただのプロセスとして自然に起こってくるものだと今は感じています。トラウマケアやセルフケアの過程で、いつの間にかこの「許し」の状態が起こっていたのでは、と思います。これにより、私自身が自分を苦しめることが少なくなり、以前より生きることがだいぶ楽になった気がします。


私は「許す」という言葉より、他にいい言葉がないか、と考えていました。「許す」だと、どうしても「許可、許諾」のイメージがあり、自己犠牲的な許しや、大目に見てあげる、というニュアンスがつきまとうからです。私にとっての許しは、どちらかというと「共存できるようになる」感じです。以前のように、過去の苦しい出来事に振り回されたり、人生を左右されることはなく、あくまで自分が主体として、過去の出来事とそれに伴う現在進行形の痛みとも「なんとかうまくやっていけている」感じです。


この感じは、自傷行為や摂食障害を自分の生きるための手段だったと認められたときと似ています。自傷行為や摂食障害のことが嫌で仕方なくて目を背けたかった段階から、「自分が生き延びるための手段だったんだ」と認められたときに、非常に楽になりました。


痛みと共存できるようになってくると、自分の人生に対して主体性を持てたり、自分のことに自分で責任を持てたり、他人と自分との境界を持ちやすくなっているように感じられます。自分や相手の不完全さを許容できたり、「まあ、いいか」と思えることが増えてきます。ずっと苦しんでいた「生きづらさ」が、共存によって軽減されているように感じています。


「許す」という言葉は少ししんどく感じられるかもしれませんが、「共存」や「付き合っていく」と考えると、少し楽に受け入れられるのではないでしょうか。


その意味で、トラウマは克服するものでも、解消するものでもなく、「付き合いやすいようにセルフケアによって形を変化させながら、付き合っていくもの」なんだと私は考えています。


許しを言葉にしようとすると難しいですが、今の私は苦しんでいる20代の頃の私に対してこんな風に伝えたいと思います。「いつか、許しは起こる。でも、許しにとらわれる必要は一切ないし、許してあげようとか、許さないとけないとか思う必要は一切ない。許す、という言葉を忘れても大丈夫。今のあなたは、今のあなた自身にしっかり向き合ってほしいし、あなた自身を大切にしてほしい」。


 

トラウマケアは時間がかかります。回復途上で励まし合う仲間の存在、「つながり」を感じられることは、とても大切です。私が摂食障害や自傷行為を認められたのは、自助グループで仲間と出会えたからにほかなりません。一人では、自分を客観視して許したり認めたりすることは難しいことが多いと思います。 私が自助グループを開き始めたのは、この経験からです。トラウマケアに取り組む中で、仲間とのつながりがもたらす力は大きいと感じています(もちろん、人それぞれですが)。地域の中で、そんな「つながり」を提供できる存在になりたいと思い、これからも自助グループの開催を続けていきます。

もしよろしければ、ぜひ一緒に回復の道を歩んでいきましょう😊🍀



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