6/8に今年度初回のACOA大阪こころのケア講座を開きました。テーマは境界線。人同士のコミュニケーションを考える上で、境界線は必須の内容です。私は初めてこころのケア講座でこの内容を学んだ時、「もっと早く教えてほしかった!小学校の道徳でこれをやってほしかった!」と思いました。それほど、知っているといないとでは大違いの話です。
境界線とは、自分と他の境目になる線、と表現されます。自分と他の境目というと皮膚があるじゃないかと思いそうですが、私たちが感覚的に感じている「自分の領域」は皮膚までではないと思います。例えば、自分の部屋、机や椅子、大切な宝物やお守り、ぬいぐるみ、とかは「自分」と感じているのではないでしょうか。トイレの個室に鍵をかけたらちょっと安心すると思いますが、それはその空間がその時は自分の場所になった(誰も入ってこれない)ように感じるからだと思います。
また、境界線は上記のような物理的なイメージだけでなく、関係性の中にも存在します。境界線を別の言い方で表すと、『自分以外の人、物、事柄に対する「大丈夫」と「これ以上はイヤ」の境目』とも表現できます。例えば、「コーヒー飲む?」と聞かれて「飲みたい」と答えたとしても、後から「これ〇〇さんの飲み残しだった」と言われると「やっぱりいらない」となるかもしれません。条件が変わったことで、イエスがノーに変わったのです。「この服貸して」と言われて「いいよ」と答えたとしても、「ここにある服を全部貸して」と言われたらノーになるかもしれません。こんなふうに、私たちのイエスとノー(境界線)は、状況や場所、条件、体調などでも変化します。
私たちは普段ほぼ無意識で境界線を使いながら生きています。この境界線をあまりに強く踏み越えられたり、何度も無視され続けたりすると、それは「侵害」となります。侵害が深くなりすぎると、心の傷となり、深い傷はトラウマとなります。
ではこの境界線をどう保つのか、どうセルフケアするのか、今曖昧になっている自分の境界線を保っていくにはどうしたらいいか、侵害してくる相手にはどうしたらいいか・・・というところを、講座で一緒に学んでいきます。
傷付きを抱えている人の多くが、境界線についての課題を抱えていると感じています。例えば、相手の不機嫌を自分のせいだと思って、機嫌をよくしてあげないとと思って頑張ってしまったり。本来なら相手に責任があることを、自分が悪いと思って責任を取るべく動いてしまったり。自分よりも相手を大切にしてしまったり…。このために、生きづらさを抱えていたりします。私もそうでした。
これらは、多くが成長する過程で身に付けてきた境界線の取り方です。むしろ、そうやって境界線を曖昧にしてこなければ、私たちは生きてこられなかったのです。自分を大事にしないことがサバイバルの方法だったということなのですが、今そのことに気付いた私たちは、やり方を変えていくことができます。より自然で、より自分にとって心地良い方法に変えられます。
境界線の持ち方は長い年月ををかけて身に付けたものなので、変えていくのに時間はかかるし練習も要りますが、確実に変化します。私たちは変わることができます。
一人だと大変だし続かないので、私は自助グループの助けを借りてやってきました。境界線の本でも、スモールグループでの実践を勧められています。
境界線は、国や文化などで異なるものではなく、全世界共通の普遍的な概念で、誰もが学ぶことを推奨されています。国連がユネスコと一緒に作成した国際セクシュアリティ教育ガイダンスでは5歳から、子どもが自分のイエス・ノーを感じて表現することを推奨しています。境界線をベースにした上での「同意」のコミュニケーションも5歳からを推奨しています。
境界線を知り、自分のイエス・ノーをしっかり感じて表現していくことは、自分を大切にし、自分を守ることになります。そうできた上で初めて、相手のイエス・ノーも尊重できます。自分と他者の尊重の第一歩が、境界線を知ることなのです。
正しく境界線を身に付けると、危険が迫った時に察知する能力も育ちますので、防犯になります。いざという時に「NO」と言ったり拒否するには、普段から「NO」ということや拒否することを練習してないとなかなか言えません。だからこそ、幼少期から境界線を意識していることがとても大切なのです。
境界線の講座はこれからもずっと続けていきます。ぜひ一緒に学んでいきましょう!
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